4けんの海鳥社のQ&A 1/1
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ネ申馬さんに質問いたしますが、2011年12月22~26日の間に読んだ本を教えていただけませんか。ちなみに私は、●島津斉彬『島津斉彬言行録』岩波書店,岩波文庫,1944年●保阪正康『100メートルに命を賭けた男たち』朝日新聞社,1984年●デュルケーム(著),宮島喬(訳)『自殺論』中央公論社,中公文庫,1985年●田中舘哲彦『遠い青春の快走―寺尾姉妹物語』ベースボール・マガジン社,1986年●八幡政男『写真術師上野彦馬』マルジュ社,1986年●陳舜臣『小説十八史略(二)』講談社,講談社文庫,1992年●永井隆『この子を残して』サンパウロ,アルバ文庫,1995年●千家尊統『出雲大社』学生社,2000年●藤本義一『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』河出書房新社,2001年●松原聡(監修)『日本の経済』ナツメ社,2001年●高崎通浩『民族対立の世界地図 アジア/中東篇』中央公論新社,中公新書ラクレ,2002●村上兵衛『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯』光人社,光人社NF文庫,2002年●読売新聞西部本社『盟約ニテ成セル梅屋庄吉と孫文』海鳥社,2002年●ねじめ正一『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』集英社,2004年●岩本徹三『零戦撃墜王―空戦八年の記録』光人社,光人社NF文庫,2004年●高群逸枝『娘巡礼記』岩波書店,岩波文庫,2004年●鈴木敏彦『ナビゲーター世界史B (4)』山川出版社,2005年●おもしろ経済学会『いまさら聞けない会社のカラクリ』青春出版社,2005年●池上彰『そうだったのか! ニュース世界地図2008』ホーム社,2008年●加賀まりこ『純情ババァになりました。』講談社,講談社文庫,2008年●江川卓,掛布雅之『巨人-阪神論』角川書店,角川oneテーマ21,2010年.ふぎゃぁ.●海老原嗣生『仕事をしたつもり』星海社,星海社新書,2011年であります。...
2011-12-27『3さいだもん』無藤 隆学習研究社...
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荒木村重について荒木村重に非常に興味があり、村重について知りたいのですが、村重が主に書かれている書籍をご存知でしたら、教えていただけませんか?知恵袋の過去質問を見ていると、“荒木村重は卑怯だ“や“荒木村重ほどのクソ武将は居ない“などといった回答もチラホラ見掛けます。私としては、特に、荒木村重に対して悪い印象しか持ってない人の読んだ書籍などが知りたいです。まさか、インターネットに書かれていることを鵜呑みにして、自分でろくに調べもせずに“荒木村重は卑怯だ“や“荒木村重ほどのクソ武将は居ない“なんて言ったりしませんよね。そんなカテゴリーマスターが二人も居たとしたら、大変ですよね。ちなみに、私が今所持しているのは、海鳥社出版で瓦田昇氏の荒木村重研究序説のみです。この書籍では、荒木村重については悪いようには書かれていませんでした。出来るだけ多くの回答をお待ちしております。どうぞよろしくお願いします。...
2010-11-07> 村重について知りたいのですが、村重が主に書かれている書籍をご存知でしたら、教えていただけませんか?そうですね、荒木村重史料 伊丹市1978 伊丹市史第2巻 伊丹市1969 なんかがいかがでしょうか。> 荒木村重に対して悪い印象しか持ってない人の読んだ書籍などが知りたいです。ということならば、織田信長系の書籍ならば、荒木村重をネガティブに捉えている記述が見つかるかもしれません。では、では。...
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三國時代の度量衡について、『陳寿が記した邪馬台国』(生野眞好/海鳥社)という本に基づいて、短里と長里についての質問を致しましたが、一番知りたかった質問(魏朝が短里を採用したと思われる痕跡が『三國志』以外にも存在するのか)には回答を頂けませんでした。それはいいのですが、仮に魏朝が後漢までの長里(一里=約435m)ではなく短里(一里=約75~90m)を採用していたとするならば、その後継王朝である晋の度量衡、特に度(つまり距離単位)はどうなっていたのでしょう?手元にある大修館書店の『新漢和辞典 携帯版』(昭和56年度発行・古くてすいません)の巻末には度量衡の変遷表が載っておりますが、これによると魏代の一里は434.2mとなっており、後漢朝と同じく魏朝も長里を採用していたとする前提のようです。しかし、晋(西晋・東晋)はもちろん十六国・南北朝時代の度量衡は載っておらず、唐代の記載(一里=559.8m)がいきなり載っています。そこで質問です。Q1晋から南北朝にかけて、度は一里が何mなのか?Q2三國魏以外で短里を採用したと考えられる王朝は存在するのか?以上を質問したいと思います。Q1について、できれば西晋から南北朝にかけての大まかな度の変遷としてご教授頂ければ幸いです。もちろん王朝ごとに若干の差異はあるでしょうし、全ての王朝のものを列挙するのは大変ですから、およそ何m~何mだったといった程度で構いません。Q2について、個人的にはないのではないかと考えています。公式の里程はあくまで長里であり、短里は民間のみで使われたローカルルール的なものだったかもしれない…とも考えていますが、なにぶん推測の域を出ませんし、もし公式に短里を採用した可能性のある王朝があるならば、それはちょっとした新発見かな…と思ったりもします。...
2010-10-19日本で『古代史のゆがみを正す』(新泉社 古田武彦)という本が出ているようです。中国サイトで見つけました。http://blog.sina.com.cn/s/blog_4dd176da01008clh.html詳しくは原著を読むべきだと思うのですが、中国に居るので手に入れることができません。要約すると;1、中国古代には「短里」が存在した。「短里」は76~77mである。2、秦が統一するまでの里は「短里」である(先秦書物の見直しが必要)。3、秦は統一後、一里を約435m(長里)とした。4、漢も秦の「長里」を踏襲した。5、魏は周制を復活させ、「短里」を使った。6、西晋も魏と同じく「短里」を使った。7、東晋以降は「長里」に戻した。という内容です。蜀は漢を継いだので「長里」を使い、国民の生活でも秦漢約400年続いた「長里」を使っていたと思います。そのため、「短里」が根付くことが無く、東晋には「長里」に戻ったのだと思います。ということは十六国や南北朝は基本的には「長里」でしょうね。先秦は「短里」を使っていた、というのは判断が難しいと思います。考古学の分野で先秦時代の「物差し」も見つかっており、それらをもとにすると必ずしも「短里」にはならないのではないかと思います。各国によって長さが異なり、始皇帝が度量衡を統一した時に「長里」を採用したとしたら、秦は古くから「長里」を使っていたのかもしれません。上記サイトは恐らく抜粋なので、原著が手に入れば更に細かいことが分かるかもしれません。(中途半端な回答ですみません)...
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約1ヶ月ぶりに知恵袋に戻って参りました。また今後ともよろしくお願い致しますm(_ _)mさて、三國時代の度量衡について質問したいと思います。『陳寿が記した邪馬台国』(生野眞好/海鳥社)この本には後漢から三國時代にかけて、距離には「短里」と「長里」の二種類があり、陳寿の『三國志』には2つの距離単位がなんの説明もなく混在しているとしています。中でも魏志東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)は全て短里で書かれているとしています。距離に関する考察としては本書の前作に当たる『「倭人伝」を読む』のほうに詳述してあるらしく、私はそちらを読んだ事がありませんので割愛しますが、本書によると短里は魏書(魏志)の魏朝成立後の記事と呉書(呉志)に限定され、魏書の後漢期と蜀書(蜀志)は長里が使用されているとの事。また、倭人条については短里で読むならば北部九州で矛盾なく説明ができるようで、著者の生野氏は「邪馬台国は福岡県糸島郡にあった」と主張しておられます。そこで質問です。1。これを読む限り、後漢→魏で度量衡(特に里単位)で変更があったと思われるのに、なぜ陳寿はその説明をしていないのか。2。短里で説明がつくならば、なぜ邪馬台国の所在地論争に決着がつかないのか。3。そもそも短里と長里の違いや存在がなぜ一般的に認知されないのか。4。魏朝が短里を採用したと思われる痕跡が『三國志』以外にも存在するのか。以上、非常に難解かつ複雑でまとまりのない質問になりましたが、回答といわずヒント的なものでもご教授頂けないものかと考えています。皆様のご意見をお聞かせ下さい。なお、この質問は邪馬台国の所在地論争を取り扱うものではありません。ちなみに長里の一里は約435m(秦・漢の里数)短里の一里は約75~90m(『周髀算経』による)との事です。...
2010-10-13御復帰おめでとうございます。邪馬台国に関するの距離単位ですが、魏時代の短里、長里が基準となったと山名宗綱氏が主張しているようです。山名氏は一長里435.4m、一短里82.5mとし、当時の朝鮮半島と日本の人々は短里を使用していのではないかと氏は推測しています。『周髀算経』での短里と「倭人伝」から算出した短里の長さがほぼ同じであり、。『周髀算経』で『呂氏春秋』から引用した「凡四海之内,東西二万八千里,南北二万六千里」の里を短里として計算すると秦帝国の推定領土面積と合致するので、戦国時代の中国人の「中華」の範囲を具体的に示す物とし、中国は戦国時代から短里を使用していただろうと言う推測しています。短里に関する記述は『荀子』、『漢書』の「東方朔伝」、『三国志』の「龐統伝」にも見られるとし、これらの書物に登場する里が長里を意味するならば矛盾するが、短里であれば許容範囲内であると述べています(ここの論証は少し頼りないですが)。「龐統伝」の裴松之の注で龐統が「駑馬虽精,所致一人耳。駑牛一日行三百里,所致岂一人之重哉」と発言したと記していますが、長里で三百里を行く牛が駑牛である可能性は低く、短里であるならば可能性があるとし、江陵张家山漢墓から出土した竹簡『二里律令』で「重車、重負日行五十里,空車七十里,徒行八十里」での荷物を積んだ車が日に五十里、前漢期の里で計算すれば20.9kmであり、車を牛が牽引するとするなら、「駑牛一日行三百里」での三百里を短里で計算する場合の22.5km~27kmと合うのではないか、出典が張勃の『呉録』であるにしても龐統は短里でこの発言をしていたのではないかと述べています。氏の結論は、陳寿は短里を使用している事を知らなかったので誤って長里で計算し、邪馬台国の位置を会稽の東と記したのではないかと述べています。まあ、中国のサイトでしか発見出来なかった文章なので、信憑性は薄いですが、結構説得力があるので参考までに書きました。確かに邪馬台国関連の資料で里を短里、長里と明確に書いてなかったのでは陳寿もかなり困惑したと思います。短里で里を理解するならば、千里馬もかなり現実味を帯びますね。一日約75~90キロは無理ではないと思います。そして短里と長里の区別ですが、当時の中国人は感覚で区別していたのではないでしょうか。若しかしたら短里と長里とでは「里」の発音が違っていたのかもしれません。短里と長里が存在したのかどうかは私では判断しかねますが。中国方面では特に論じられていないようです。2のご質問についてですが、学者達は容易に新説を認めたがらないので、論争に決着がつかないのは仕方ないかと。ビッグバン説に反対する物理学者もまだいますしね。補足拝見しました『周髀算経』は『九章算術』に並ぶ最古の数学書とされ、紀元前1世紀から紀元前2世紀に成立したと見られています。円周率や直角三角形、何よりも暦について書いてあり、暦学の基礎として色々な人が注釈をつけて古典として重要視されているようです。http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%91%A8%E9%AB%80%E7%AE%97%E7%B5%8C説明しているページです。...
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